死にたいと思うことがなぜ悪いことのように扱われるのか
引きこもりのニートとして生活している自分は毎日死にたいという気持ちを抱えて日々を過ごしている。
常に希死念慮が付き纏い苦しめ日々の些細な娯楽で現実逃避をして希死念慮を誤魔化しながら生きている。
社会は自分に働けと言うが田舎に住む職歴無し無能に働ける場所などあるわけもなく。
そもそも、成功体験が無く無力感で溢れている自分にもできる仕事など存在するのだろうか。自分がまともに働けている姿が想像できない。
働くことが嫌なだけの怠け者というステレオタイプに基づいたレッテルをよく見かけるのだけれど、それは自己肯定感のある人間だからこその思考なのだろう。自分が知りたいのは、どこで働くかではなくどこなら自分のような無能でも働けるのか、という点なのだ。
何もわからない。ネットで調べても普通の人向けの情報しか出てこない。自分のような無能に向けた情報など無い。ニート向けの情報を見ても役に立たない。
無能は家で引きこもること以外何ができるというのか。
結局の所、自分の将来は自殺以外に道はないわけで。それを分かっていながら一歩自殺への道を踏み出せない自分の臆病さにはうんざりさせられる。
早く死んで楽になりたい。だから死にたいと思う。自殺こそ自分が行うことのできる一番現実的な考えだというのに。
なのに世間では死にたいというのは悪い事のように扱われている。そういった話を読むと相談しろ、だとか、気の持ちよう、などと書かれているのだけれど、なんなのだろうか。
相談したところでどうせ他人事のように(実際他人事なのだけれど)楽観的で的外れで適当な精神論をぶつけられるだけだというのはこれまで生きてきて散々嫌というほど覚えさせられたのに。それでもまだ誰かに相談しろと言うのか。
相談してどうなるというのか。何か具体的な事でも提案してもらえるとでも思っているのか。今まで何か解決策になる提案など一つもされたことはないぞ。
カウンセラーが憎い。ニタニタと気持ち悪い笑顔を浮かべて善意だと思い込んでいる物を無理やり押し付けて、自分は良いことをしているのだと勝手に思い込んでいるカウンセラー達が憎い。
もし、可能であるならばこの世に存在するカウンセラーを一人残らず殺してやりたい。お前は他人を助けるどころか更に苦しめているだけだということを突きつけてやりたい。
他人など信用できない。それは所詮他人事なのだから。どんなに自分が苦しんでいたとしても、それは他人事だから結局相手になんか伝わるわけもないなんてことは小さい頃からずっと分かっていたはずなのに。
自分の愚かさと間抜けさにうんざりする。はやく死にたい。