学習性無力感の日々。

学習性無力感の日々。

掠れそうな引きこもりニートの呟き

「死んだら負け」と言うが負けでも構わないから死にたい

 あるお笑い芸人曰く、死んだら負けだそうな。

 しかもそのコメントを同じ芸能界で活動していた未成年のアイドルの自殺に対して言い放ったのだから救えない。

 芸能界という浮世離れした場所で長年過ごしているとそんな発想になるのだろうな、と呆れしか出ない。まあそれは置いておくとして。

 

 正直、今まで生きてきて散々負け続けてきた自分からしてみれば、自殺するのが負けで何が悪いの?としか。

 自殺が負けだとしても、これから先に待ち受ける数多くの負けに比べたら、一回負けるだけで今後の負けを受けなくなるという最高の選択肢とまでは言わないが、最善の選択肢なのではないかと自分は思ってしまう。

 そもそも死んだら負けと言うのなら、生きていたら無条件で勝ちだとでも言いたいのだろうか。無責任にも程がある。

 生きているだけで勝ちどころか、自殺できず自殺する勇気が持てずだらだら生きている時点で既に自分は負けているのだ。

 もし自分が死ぬ勇気を持っている賢い人間ならば、こんな状態に至る前に自殺という毒親や社会から逃れられる唯一の手段を取って人生の負けの数を最小限に留められたはずなのに。

 自殺する勇気が持てず安楽死を願って日々苦しみながら引きこもる人間のどこが勝ちだというのか。

 勿論当然分かっている。死んだら負けなんて言葉を発する人にとって自分は人間の範疇に入らないことを。

 社会人ではない自分は一般的日本人の枠組みには入らないし、そんな人間がいることを想定した発言をする必要などない。

 社会から存在する必要が無いと認定されている底辺になどいちいち構ってなどいられない。死んだら負けという言葉で自殺することを止めるという対象の枠組みの外に自分は位置しているのだ。

 死んでも当然。それが社会が自分に向けているメッセージ。

 そもそも死んだら負けという言葉の対象になっていない自分がその言葉に対して文句を付けること自体が的外れな話である。

 

 それともう一つ、例のお笑い芸人は「死んだらみんなが庇ってくれるっていうこの風潮がすごく嫌なんです」と自殺したアイドルに対して言ったそうな。

 これに関してはぐだぐだ言う必要もないだろう。あまりにも下らないし馬鹿げてる。

 本当にみんなが庇ってくれるのだとしたら、この世にはいじめ問題やブラック企業問題などの問題は既に存在していない。

未成年のアイドルが自殺すれば大事となって原因の調査などが行われるのだけれど、一般人が自殺しても誰も庇わないどころか直ぐに忘れられてしまう。原因など考えず変えようとせず、また別の誰かによって自殺が繰り返されるだけ。

 結局、テレビは視聴率受けする悲劇が欲しくて庇っているだけなのだ。そしてそれに釣られて視聴者もテレビに映った悲劇を庇う。ただそれだけ。テレビ受けする悲劇でなければ誰も見向きもしない。自己責任と切り捨てるだけ。何も変えようとはしない。

 ひたすら無責任で無慈悲で無関心な社会。綺麗事だけで済ませようとするのは何故?