学習性無力感の日々。

学習性無力感の日々。

掠れそうな引きこもりニートの呟き

なぜ普通の人達は自殺したいと思わないのだろう

 あるツイッターのフォロワーの方にこのブログについて「精神世界の闇をテーマにしたブログ」と評してもらった。

 自分としてはそのつもりはないのだけれど、異常なことを書いているブログという自覚はあるつもりだ。

 自分の抱えている感情が闇そのものなら、普通の家庭で過ごし育てられ成長した普通の人達の光はどのようなものなのだろう。

 映画やアニメのようなフィクション作品で登場するような暖かい暮らしの中で生きてきたのだろうか。

 自分には縁遠いものなのであまり実感が持てない。それが普通だと言われても物語の世界の話であり、自分の世界には存在していないものなのだから。

 自分は子供の頃から浅い人付き合いしかしてこなかった。友達なんて半年でも関係が続けば充分な程度。他人の家庭など知る由もなかった。

 もし、フィクションのような家庭が世間一般の普通の人達では当たり前であり、それが前提で物事が進んでいるのだとしたら、そうでない家庭のことなど頭にないわけで。

 結局なにを考えようと知らない物に対して推測で物を語ったところで何の意味もない。自分が置かれている状況が変わるわけでもないし、変える気力もない。

 

 精神世界の闇を抱えていない人達は何を考えて生きているのだろう。

 なぜ自殺したいと思わないのだろう。なぜ普通に他人と接して仕事をしたり、他人と付き合ったり、子供を作ったりするのだろう。なぜ生きようとするんだろう。

 自分は生きているだけでこんなにも苦痛で仕方ないのに。生きていること自体が自分を傷つけているのに。

 普通の人達の思考がわからない。普通の人達の為に作られたものが嫌い。けたたましい流行りの音楽も、大勢の芸能人が大声で笑いながらVTRを見たり他人の話を聞くテレビも嫌い。インスタ映えもわからない。自撮りをネットに公開するのもわからない。

 わからないことが多すぎて社会で生きていける気がしない。周りに合わせるという行為をするのはひたすら疲れる。

 自分の素をそのまま現実でも出してしまえばどれだけ楽に生きていられるのだろう。でもそんなことをしたら自分は多分間違いなく犯罪者にでもなっているはずだ。

 引きこもって自分の殻に体も心も閉じこもっているからこそ自分はまだまともでいられる。理性を保ち犯罪者にならずに社会不適合者としてぎりぎりの立ち位置でいることができる。

 どこまでがまともで、どこまでが普通で、どこからが異常なのだろうか。

 社会的常識が自分にはない。持ち合わせる方法も理解する知能もない。理解しようとしていないだけ。そんなことをするよりも自殺したほうがよっぽど効率的。

 自殺したい。常に自分の頭の中には希死念慮が存在している。それは普通の人達にとってはおかしいことらしい。普通がわからない。死にたい。