学習性無力感の日々。

学習性無力感の日々。

掠れそうな引きこもりニートの呟き

引きこもりニートが尾崎豊を聴いて思ったこと

 自分の世代ではない時代の歌手である尾崎豊は学校が荒れていた昔の時代の人程度にしか思ってはいなかった。盗んだバイクで走り出したり、校舎の窓ガラスを壊して回る、のような所謂ステレオタイプ的な情報しか知らないような若者。

 ラジオで尾崎豊の楽曲を聴いたのがきっかけでハマって聴く内に自分の持っている尾崎豊への先入観は間違っていることに気付かされた。

 15の夜はバイクを盗んで自由に走り出そうぜ。なんて歌ではなく、悪さをして自由になれたつもりになっても夜が明ければまた元の世界に帰るだけという歌。

 卒業は学校を卒業して自由になろうぜ。なんて歌ではなく、いくら逆らい続け足掻き続けてもこの社会で生きていくのならば本当の意味での自由になんかたどり着けないんだから諦めて戦いから卒業して大人になろう。という歌。

 どちらもサビのインパクトが強すぎて本来の意味が伝わってないんだなと思うと同時に、一部分だけではなく全体を見ないと物事を理解することはできない、ということに気付かれる。

 他の楽曲も合せて聴くと尾崎豊は社会と戦う反逆者などというステレオタイプ的な歌手ではなく、ただ青春の日々を歌にしているだけで15の夜や卒業はその青春の一部なだけなのだろうと思うようになった。

 尾崎豊の死後に生まれ、当時の社会の雰囲気など知らない自分では楽曲を聴いたイメージだけしか理解することはできない。リアルタイム世代が読んだら笑われるような記事の内容になっていないか書いていて少し不安になってくる。

 

 「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」

 尾崎豊の最初のアルバムである十七歳の地図に収録された「僕が僕であるために」の歌詞の一部。

 勝ち続けなければ、正しいことが何なのか分かることはできない。たしかにそのとおり。

 勝ち続けるというのは精神的な意味なのだろう。勝つことで物事を乗り越えて行く。

 勝ち続けなければ自己肯定感を得られず、自分自身の存在を見いだせることはできず、何が正しいのか何が間違っているのか理解できなくなる。

 ひたすら負け続け、引きこもりのニートという底辺で暮らす自分には正しいことが何なのか分からない。

 自分の存在意義が分からない。生まれてこなければよかったと思いながら死にたいと呟き生きている無意味な人生。

 社会で生きていきたいのなら、自分の実力や周りの環境を含めた様々な要素で勝ち続けなければならない。負けてもそれを取り返す為に勝って挑み続けることができないと生きてはいけない。

 

 尾崎豊の楽曲には自分の足りない物が沢山詰まっている。だから聴いて好きになれたのだろう。不良の音楽と言われている物に自分のような根暗が惹かれるだなんて、なんだか不思議な感じだなと自分でも思う。

 ステレオタイプやレッテルを捨てて楽しめば今まで食わず嫌いしてきた物も好きになれたのだろうか。その時は全体像を見てから好きか嫌いかを決めるようにしよう。